カテゴリー
未分類

愛のあるセックスって?を追加致しました。

愛のあるセックスって?

世間には、「愛のあるセックス」「愛のないセックス」などというセックスの善悪を判断する基準があ る。
「愛」という極めて難解・曖昧な言葉が基準値であるにも関わらず、根強い支持を受けている。男女の90%近くが、何 らかのかたちでこの基準を容認している。
哲学の貧困が叫ばれる中で、セックスにおける「愛」という概念だけは、いとも容 易く、人々に受入れられている。このことが、大変不思議である。

仮に、セックスにおいての「愛」の概念が哲学的でないとするならば、それはそれでいい。
しかし、それならそれで、セック スにおいての「愛」ってのは、どのようなものなのか、気になってくる。
愚にもつかないことを考え出してしまったが、気になって仕方がない。なぜなら、このようなセックス関連のサイトに関わる と、驚くほどの頻度で「愛あるセックス」という言葉に出会うからである。使用している人々が、セックスで言うところの 「愛」をどの程度に理解しているのか、フト思った所為である。

「愛」という概念を哲学、社会学、心理学などの学問領域で考えるだけでも容易ではない。
とてもコラムで片付けられる問題 ではない。その上、それら学問領域でも「愛」の定義は定まっていない。
つまり、「愛」というものは、本当ははっきりと定 義できない情操であり、その定義すら難解な、正体不明な「愛」をもって、人間の行為の善悪を律することは出鱈目に近い常 識ではないのだろうか。
「愛のあるセックス」という言葉が持つ快感が、広く人々に受入れられたのは理解できる。「愛がないセックス」よりも随分 マシな感じだ。しかし、「愛がある」というのはあまりにも甘すぎる言葉で、子供騙しな言葉でもある。
世間で気軽に使っている「愛のあるセックス」の愛は、おそらくアガペーの愛ではなく、エロスの愛を指しているのだろう。 つまり、何らかの対価を双方が提供している「愛」だと考えられる。何もキリスト教的「愛」を語るつもりはないが、「愛」 の定義では最も知られているので、この際利用させてもらおう。

たしかに男女が恋愛するには相思相愛が重要な要素だろう。相思相愛の度合いにバラツキはあるだろうが、一応そういうこと になる。例え後になって、愛していたと思ったのは間違いだとか、実は身体だけ愛されていたとか反省はあるだろうが、その 時は愛されている、愛しているという同等の精神的対価交換が存在している。
相手の異性に愛されているかどうか、あらゆる 方法で双方は確認をしているはずである。例えそれが錯覚であっても、確認は直感も含めて確認しているものだ。
そういう意味では、セックスにおける「愛」は等価交換されるのが理想だといえるだろう。
一般に「愛のあるセックス」が必要だという議論は、主に男女のセックスの出発点で起きる議論な訳で、夫婦間での「愛のあ るセックス」ウンヌンは、別次元の問題である。
「愛のあるセックス」は「許されるセックス」という市民感覚は、性文化の近代における抑圧という歴史背景からの解放から 生み出された言葉でもある。この耳障りのいい言葉によって、婚前交渉が認知されるようになったし、結婚を前提としない セックスも「愛」さえあれば可也へと発展した。そういう意味で、日本のセックス事情を大きく変えた功績は認めよう。
しかし、結局のところ、どうにでも解釈出来る柔軟な「愛」という言葉によって、極端な言い方をすれば、どのような状況も 「愛」だと強弁する都合のよい環境を男女に与えたともいえる。
そろそろ、戦後の混乱ではないが、性へのいわれなき抑圧が 少なくなった現在、その目的は充分達成した言葉(言説)なのではないのか。

高校生同士でも「愛してさえいれば」セックスはOKの時代の幕を開けてしまった。最近は小中学生にまで広がる勢いであ る。筆者はだからといって、若年世代のセックスを頭から否定するつもりは毛頭ない。
個人の勝手である。小学生であろう と、男子であれば勃起と射精できれば医学上、禁止する根拠は乏しい。女子は初潮があれば、原則妊娠する可能性があること から、これも禁止する理由が乏しい。
若年者のセックス経験者は必ずと言っていいほど、「二人は愛し合ってます」という言葉を口にする。聞きかじりの意味だと しても、真っ向彼らの愛を否定することはできない。当事者は多分本当に愛し合っていると思っているわけで、余人がどうこ う判断できるものではない。

良くも悪くも「愛のあるセックス」という言葉は既に、ゾンビのように予想外の方向に走り出していることになる。
この「愛のあるセックス」「愛のないセックス」の区別は、公娼制度を排斥するために、性行為に善悪の色分けをしようとし たことに由来しているのだろうが、皮肉にも素人女性の肉体が「愛」という言葉を飾りつけることで、安易に商品化されるリ スクを生んでしまったようだ。ここでいう「商品化」は単に援助交際のような意味の商品ではなく、「愛」の交換としての肉 体という意味である。愛を継続させる手段として、痛いけど彼の愛に報いようとする少女心理に、後ろめたさはない。

教育機関で性的問題に直面している人の中では、「愛あるセックス」という言葉が誤解を招いていると指摘している。出来れ ば「思いやりのあるセックス」とか「責任の取れるセックス」とか、そんな言葉に変えた方がいいのではと、答えている。自 由主義の原則との整合性が問われる厄介な問題だが、「愛」という言葉が抽象的で個人的過ぎるにも関わらず、汎用言葉に なっているのはたしかにおかしい。
実は大人の世界にも「愛のあるセックス」性善説への疑問がある。少なくはなったが「お見合い制度」というのは、「愛のあ るセックス」になるのだろうかという疑問である。
社会的に調和の取れた男女を出会わせ、結婚することを誘導するわけだ が、その経緯を見る限り、「愛」が育ってから「セックス」をしているかどうか、相当に疑問である。見合いの後、数回の デートで双方承諾の有無を仲人に知らせる。次に結納、そして結婚である。昔と違い、その承諾の有無は自由だが、「愛」が 育つたという状況には疑問が残る。
「いいえ、我々は愛し合ったから承諾したのです」との反論も聞かれるだろうが、第三者的には納得出来ない。見合において は、承諾さえすればセックスが原則保証されているのだから、愛してるからセックスした分類に入れることには抵抗がある。
この場合「愛あるセックス」ではなく「手続きを経たセックス」というべきである。いい意味での等価交換セックスだという 考えにも一理ある。 また、愛もへったくれもない、お互いその日はヤリタカッタからセックスに至った。終電もないし、タクシー代ももったいな いから、仕方なく泊まったら迫ってきたので、まあイイカくらいの気持でセックスしてしまった場合でも、そこから愛に発展 する場合もあるだろう。このような場合は「愛のないセックス」から「愛のあるセックス」に移行するわけで、初めは「愛の ないセックス」だともいえる。

どうもこんな風に考えていくと、「愛あるセックス」なんて言葉は、大変な欺瞞なのではないかと思わざるをえないわけで す。
そもそも、超個人的な問題である「セックス」を「愛」などといういい加減な言葉でお茶を濁したことから、間違いや誤解が 拡大した考えられる。まして「いいセックス」「悪いセックス」も余計なお世話である。
愛があろうとなかろうと「セックス」は原則自由だという理念が根本にあるということを強調すべきである。セックスは自由 ですよ、何時何処ででも、誰とでも、どのような形のセックスも自由にしていいのです。
ただし、法治国家である以上、法律上禁止されたセックスを実行すると罰せられますということでいいのではないのだろう か。罰を承知でセックスに励むのは、これも個人の自由だといえる。少なくとも「愛」などという訳の分からない言葉に一喜 一憂する必要はなくなる。

もっと重要なことは、「何でも自由」への「権利と義務」そして「自己責任」の存在を明確に、出来れば具体的に伝える情報 が求められるのだろうが、そう簡単ではない。このことは本来「セックス」に限らず求められる自由主義成立の絶対条件なの だ。この自由の権利と義務、自己責任への情報が極度に不足している。あまりこの部分に拘ると、横路に逸れすぎるので止め るが、日本全体に自由への義務感が欠けた社会が形成されているのは事実である。
セックスにおける自己責任って何だろう。妊娠したら育てる義務?そりゃ無いな。育てる気がない場合、妊娠させない避妊義務、多少あるか。
間違って妊娠したら、強制的に結婚させる?これは無茶苦茶な義務。間違って妊娠した場合に、中絶費用を男性側に捻出させる義務、これは意外に効くだろう。序に、中絶による女性の将来リス ク担保の慰謝料50万円の支払い義務も中々いいぞ。
STDなどを相手に感染させない義務、まあ義務といえるだろう。自分が感染症などに感染していないことを確認する義務、チョット無理な義務のようだ。セックス時に、相手が痛みを訴えるにも関わらず、強引に遂行した場合、準強姦罪適用、こりゃ行き過ぎだ。
少し冗談の世界に入ってきたが、セックスにおける自己責任をもっと具体的に明記し、全ての世代の男女に認知してもらう情 報の発信が痛感される。

相当に話が混乱してきたが、要するに筆者は「愛あるセックス」という言葉に反対なのである。「一を聞いて十を知る」時代 は終わった。あらゆる常識の定義も恐ろしいスピードで変化している。このような時代に曖昧な定義は混乱を助長するに過ぎ ない。悪用する知恵はドンドン発達するのだから、誰でも理解できる、言い逃れが出来ないセックスへの具体的提言が待たれ る。
特に教育現場では、生徒の方が性経験が豊富などという皮肉な逆転現象まで起きている。文部省とか日教組のゆとりと甘えの 構造から、これらの提言を期待しても無理である。本来言論界が活躍すればいい場面だが、それほど魅力的テーマでもなく、 議論が活発になるとも思えないし、その論争を必要とする人々が読み知る可能性もないだろう。

短絡的な広報戦術だが、タレントや人気文化人による特集徹底討論番組「愛のあるセックスならしてもいいの?」などとネー ミングしたテレビ番組がいいのかもしれない。「愛」があればすべてOKといった勘違い社会層にはこのような手段も有効だ ろう。民放ではスポンサーが見つからないか。否、コンドームメーカー、製薬会社、ホテル業界、ベビー用品メーカー、産婦 人科、弁護士会など等無いこともないのでは。NHKでは討論に参加する人選で、もうアウトな番組になり、見せたい人種が 全然見ない番組になってしまう、それでは意味がない。やはり民放がするべきである。
ちなみに、討論出席者を考えるのも面白い。この遊びの人選をもって、「愛あるセックス」コラムは終了する。
主な出席者
男性:北野武、宮台真司、加藤秀一、木村拓哉、森岡正博、石田純一、岩上安身、阿部輝夫、山崎拓、窪塚洋介、梅宮辰夫、 田中康夫、村上龍、渡辺淳一など
女性:上野千鶴子、北原みのり、福島瑞穂、大川玲子、松田聖子、愛染恭子、鈴木沙理奈、江角マキコ、鷺沢萌、瀬戸内寂 聴、林真理子、唯川恵、岩下志麻子など
多少古くさい顔ぶれだが、あまりに若いと話すらしない可能性がある。
否、TV番組もインパクトないね。逆に滅茶苦茶な話になってしまいそうだ。ゲームソフトがいいかもしれない。世の顰蹙覚 悟で作るべきである。
男女別々に100人くらいのキャラクターを並べておき、個性の異なるキャラクターとベットイン・インサート出来るかどう かを競う。出会いからベットインまでには、ありとあらゆる障害が待受け、挑戦者の対応をチェック、次へのステップの可否 を決めていく。
A子に通用した答えがB子ではブーになる。人によって受入れ方が様々なものだと感心するだろうし、自分も色々の考えを知 ることが出来る。何か似たようなゲームが既にあるかもしれないが、障害となる設問如何では、性教育にもなるだろうし、初 めてのセックスに望む人々へのメッセージとしても有効かもしれない。ひとつのキャラクターへの挑戦は3回でタイムオー バー、ソフトが消滅するのもリアルでいいのでは・・・今回は遊びすぎかな・・・おわり

カテゴリー
未分類

年末年始も休みなしで営業を続けております。

カテゴリー
未分類

ファッションと性欲を追加致しました。

ファッションと性欲

最近フト気づいたことなのだが、子育て真っ最中の30代ママ連のファッションが、押し なべてパンツルック(ジーンズも含む)になっていることだ。
たしかに子育てに奮闘している女性にとってパン ツ(スラックス)ファッションの流行は棚からぼた餅である。
流行と実用性がまさに一致したのだから、言うこ となしの現象といえる。ママチャリで疾走するにも、子供の世話をするためにしゃがみ込むのも、気にせずにい られラクチンなのである。
トレンドファッションだけに、特にダンナが文句を言うこともない。

昔は、公園の砂場で子供を遊ばせている若妻の下着や太腿が垣間見える僥倖に出会い、奇妙に幸せな気分を味 わった男たちの楽しみは、ほとんどなくなった。
身近の彼女達に聞いてみると、家の中でも当然パンツルックを 通しているらしい。
30代夫の眼には、自分同様のズボン、ズボン、ズボンがあるだけになっているのかもしれない。夫は最近、妻 のナマ足を見る機会すら無くしたようだ。
精々、見せる下着だというパンティの上部がパンツから出ている程度 の景観に成り下がっている。エプロン姿の妻の後姿に欲情する夫の姿は、もう日本には見られないのだ。
気の毒 な話である。自分と違うものを見ることで視覚が刺激され、性欲中枢が勃起命令を出すことが多い男の性欲は、 少なくともファッションの次元ではスポイルされている可能性がある。
パンツファッションの流行とジェンダー フリーとの関係がどの程度のものなのか定かではないが、「求められる服装、女性らしい服装」から「気持のい い服装」に女性の意識が変化している現象の一つだと考えることも出来る。
女性の自己主張としては大変立派なのだが、このような服装のトレンドが主流になるとすると、妻・女性にとっ て都合の悪い現象も生まれてくると思われる。服装の男性化、否失礼、「気持のいい服装」が男性・夫の視覚的 刺激を減少させ、生活の中での性的刺激減少が性欲の減退に結びつき、軽度のセックスレス現象を助長する可能 性は大いにあるだろう。

反面、逆に日々刺激して止まない面白いファッション現象が、女子高生のミニスカートである。これは今度は 2,30代女性のパンツファッションをあざ笑うかの如き状況なのである。
ナマ足とナマ腿、サービス満開状態 なのである。最近では、女子制服にパンツ(ズボン)の導入を企むジェンダーフリー論者もいるらしいが、当の 生徒からの評判は芳しくないようでヤレヤレである。
女子中高生のミニナマ足ファッションが性的刺激を同級生の男子や世の男どもに与えることは事実である。ある 意味で町中での男性に対する性的視覚刺激を、一身に引き受けている、貴重な存在だともいえる。
勿論ここで云 う男性への刺激は、極めて緩やかなもので、特に性犯罪に直接結びつくような、過激なものではない。中にはそ の程度の刺激で異常な行動に走る男たちもいるだろうが、それは単なる犯罪者である。
彼女等が無邪気に太腿まで見せて、町を歩き平気でいられるのは、性的経験がほとんど無いか、性的快感をまだ 知らないからだとも云える。ある意味で男女の性差などの知識が無いことから生まれる、無分別な選択なのかも しれない。つまりは、まだ本格的に色気付いていない証拠だともいえる。

しかし、善悪は別にして、彼女等のファッションが彼女等の肉体が成熟していると勘違いさせるに充分な視覚的 刺激になっているため、大人の男どもにセックスの対象として意識付けている可能性もあるだろう。
教師連中の 性犯罪にもそれなりの影響を与えていると想像できる。勿論、そのことで犯罪を犯した者の免罪符などにはなり えないのは当然である。このコラムにおける視点からの推論に過ぎない。
少し前の米国人気番組「SEX and the CITY」がSEXとSEXYのファッショントレンドとして注目されたが、今風に生きるニューヨカーの女性のファッションはほとんどがスカートスタイルで パンツルックは僅かに見られるだけだった記憶がある。

つまり、生き方で男女の性差を無くそうという考えと、敵であり味方でもある男の本能(性の性差)を逆手にと る、見事に逞しく賢明な女性像が描かれていた。
卑屈になることなく、武器は武器、生き方は生き方の使い分け の成熟が求められているのだろう。
教条的ジェンダーフリー論者の考えを推し進めると、老若男女全員が国民服着用なんて世界が出現する。これは もうファッションではなくファッショの世界なのだ。
まあ、そんなことはどうでもいいが、男女共通に服装が双 方の性中枢に刺激を与えている事実を無視してはマズイだろう。
最近の相談で、子育て中に夫がセックスを求めないのは何故?から書き出したコラムだが、恋愛、結婚、出産、 子育て、このへんから夫婦のSEXに乱れが生じる。
このことは妻のファッションに全ての責任があるわけでは ないが、一因になっている可能性は大いにある。
だから言ってるでしょう!、「夫がもっと子育てを!」という問題ではないのです。ほのかな色気も否定する 人々は別ですが、男女の性差のメカニズム知識を学び、臨機応変に利用する強かな女性であり妻であり母であ る、そんな貴女への応援コラムでした

カテゴリー
未分類

実例紹介、お客様の声を更新致しました。